市邨先生は、生徒たちに自分の個性を社会のために役立てるよう勧めました。そうすれば、のびのびと自分らしく生きながら、社会の一員としても活躍できるからです。個人と社会の調和こそ、先生がめざす理想でした。
市邨先生はよく「桜は桜、松は松たれ」と語っていました。桜と松の美しさが異なるように、人間はみな独自の長所を持っているので、周りを見渡し他人と自分とを比較したり、ましてや、人の才能をうらやんだり自分自身を卑下しても意味がない、人は天から与えられた唯一の才能を存分に発揮し努力する姿が人を感動させるのだから、それを伸ばすべきだという意味です。本学園ではこの言葉にちなみ、中学・高校の校章に桜と松の図柄を採用しています。
みなさんのなかには「世界に一つだけの花」という歌を連想した方もいるかもしれません。明治維新の直前に生まれた市邨先生と、現代のポップスが似た比喩を使っているのは面白いことです。それだけいつの世にも通じるテーマなのでしょう。
ただし市邨先生が、今よりずっと不自由な時代を生きていたことを忘れてはなりません。当時、女性の権利はきわめて制限されていましたし、多大な階級格差も存在していました。こうした社会では、自分に合った仕事や生き方を選ぶこともなかなかできません。
自由とは、個性や才能を発揮することでもあります。社会貢献は人に生きがいを与えてくれますが、それは本人の資質を活かした、自発的なものでなければなりません。鋳型に押しこまれて社会に従うことを強いられた人には、人生が牢獄に見えるでしょう。
ゆえに「桜は桜、松は松」という言葉のニュアンスも、私たち現代人が感じるより切実でした。市邨先生は、生徒が過酷な時代に負けず、自分らしく生きるチャンスをつかむことを願っていたのです。女子の商業教育を推進したり、名古屋市に学校の増設を求めたりしたのも、より多くの子供に個性を活かす術を教えるためでもありました。
市邨先生は大正十三年に、当時の義務教育が小学校までしかなかったことを批判しています。どの子供にもさまざまな長所があるのだから、それを伸ばさないのは国にとっても損失だと。
黄金は人の尊ぶものなれども、いかにけっこうなものであっても、これで鉄の船を真似るわけにはゆかぬ。もしまた鉛がなかったならば、今日文化のうえに偉大なる貢献をなす活字というものもできませぬ。
市邨先生は、生徒が個性を発揮できるほど成長するには時間がかかることも強調しました。ここからしても、小学校を出た時点で見切りをつけるのはもってのほかです。
はじめは真鍮と見えたものが、さまざまの時の変化によりて、いつか上皮がすれて中から黄金の光が現れるので、入学の時銀に見えても、教育を受くるにしたがって、白金の地金が出てくる。
市邨先生にとって教育は、社会をより自由にするための戦いでもあったのです。
現代の日本は、市邨先生の時代より、ずっと自由な国になりました。しかし本学園の、生徒の個性を重んじる方針は変わりません。いつの時代、どこの国であろうと、人が自由に生きるには、個性を活かせる場所を自分で探さなくてはならないからです。
戦前の学校の校章等(校章の扇の要部分に桜と松があしらわれている)
参考文献
山崎増二・杉浦太三郎・伊藤惣次郎編 『市邨先生語集』 市立名古屋商業学校・名古屋女子商業学校・名古屋第二女子商業学校 1926
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