私学、陽炎の教育とは③
(月刊なごやか NO.415(令和3年9月)掲載)
( 転載にあたり、掲載内容を2つに分け、掲載時の内容・趣旨に基づき修正、順番を入れ替えております。)

前回は市邨先生が、幕末期を経験した先人たちから何を学んだかについてお話ししました。なかでも市邨先生に多大な影響を与えたのは、商法講習所時代の恩師、矢野二郎先生です。矢野先生は日本に商業教育を根づかせるため、渋沢栄一氏と協力して周囲の無理解と戦いました。

今回は大正三年に市立名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)で開かれた、創立三十年式典から話をはじめましょう。市邨先生は当時、同校の校長を務めていました。

市邨先生はこの式典に渋沢栄一氏を来賓として招待しました。渋沢氏は日本の商業教育の普及に大きく貢献しているからです。日本初の商業学校、商法講習所(現・一橋大学)は、経営が軌道に乗るまで何度も廃校の危機に見舞われました。この時期に同校を支えたのが、事実上の初代校長である矢野二郎先生と、ほかならぬ渋沢氏だったのです。

いっぽう渋沢氏も、この式典には特別な関心を抱いていたことでしょう。市邨先生は商法講習所の卒業生で、当時すでに亡くなっていた矢野先生が、手塩にかけて育てた生徒の一人だからです。渋沢氏にとって今回の式典は、盟友の弟子である市邨先生が、師の名に恥じぬ仕事をしているか見きわめる好機でもありました。

渋沢氏が式典の祝辞で述べたところによると、矢野先生は学生一人一人について「性質、または弱点、あるいは癖など」を把握し、「悪いところは直し、善いところを伸ばし、なにか事があると相談をし」「かゆいところへ手の届く」ように面倒を見たそうです。ゆえに矢野先生と学生は「ほとんど真実の父子」のごとく親密でした。

とくに市邨先生は、矢野先生を熱烈に慕っていることで知られていました。この式典と同じ年の、地元紙の記事によると、市邨先生も矢野先生について語るとき、しばしば「おやじ」と呼んでいたそうです。また自校の卒業生は「矢野先生の孫」だとも語っていました。

渋沢氏は式典の祝辞で、矢野先生と商法講習所を守るため共闘した日々の思い出を語りました。商法講習所はもともと、明治八年に森有礼氏が創設したものです。しかし外交官の森氏は、講習所設立の直後に中国へ赴かざるをえなくなりました。そこで東京府が森氏にかわって同校を所管することになります。

このときから商法講習所の受難がはじまりました。東京府は講習所を押しつけられたお荷物のようにとらえ、ことあるごとに運営費を削減したのです。そのため同校は深刻な経営難に陥りました。

校長の矢野先生は、危機を乗り切るために私財を投じて資金不足を補い、渋沢氏にも助けを求めました。渋沢氏は森氏の講習所開設に協力し、その後もなにかと学校の運営を手伝っていたからです。このときも渋沢氏は、みずから寄付をするのはもちろん、他の資産家からも寄付を募るために奔走しました。

東京府が商法講習所を冷遇したのは、時代のせいでもあります。明治前半にはまだ、江戸時代の遺物である商業蔑視の風潮が色濃く残っていました。ゆえに商業教育の意義もなかなか理解されなかったのです。

渋沢氏は式典の祝辞で、当時の空気を伝えるために次のような逸話を語りました。現在の東京ガスが、ガス局として東京府に属していたころのことです。その経営に携わっていた渋沢氏は、東京大学の卒業生をガス局の技師に抜擢しました。ところが卒業生は当初採用を喜んでいたのに、渋沢氏がガス局を将来民営化するつもりだと述べたとたん、態度を一変させました。東京府ガス局の役人なら周囲に尊敬されるが、ガスを売る商売人では見下されるからいやだというのです。

渋沢氏はがっかりして、東大総理の加藤弘之氏に不満を漏らしました。おたくの卒業生は民間の商売を大変バカにしています。こんなありさまで、日本を豊かにすることはできません。先生方は役人や教師だけを育てるおつもりなのですか。教師が必要なのは教えを求める生徒がいるからです。生徒なき教師、人民なき役人がなんの役にたちますかと。

こうした世相ゆえに、渋沢氏はなおさら商法講習所を重んじました。日本から商業蔑視が払拭されないかぎり、商人が新たな活躍の場を切り開こうとすれば、必ずや世間に白眼視されます。商人が負けずにおのれを貫くには、商業の社会的役割を知り、自分の仕事に誇りを持たなくてはなりません。ゆえに商人をめざす若者には、実務的な知識を教わるだけでなく、大局的な視野から商業について学べる場が必要なのです。

しかし明治一四年、商法講習所はこれまで以上の窮地に陥りました。講習所を厄介者扱いしてきた東京府が、とうとう同校の廃止を決定したのです。渋沢氏は式典の祝辞で、当時の気持ちを「東京府会がせっかくある唯一の商業教育を、不必要なり、廃するというにいたっては、いかに愚昧であるか、いかに残酷であるか、これはどうしても、おのれの独力でも保存せねばならんと考えた」と語っています。

矢野先生や渋沢氏は、商法講習所再開のための運動を粘りづよく行いました。おかげで農商務省が運営費を支援することに決まり、同校は間一髪で廃止を免れます。やがて明治一七年、同校は東京府の所管を離れて国立学校となり、苦難の時代はようやく終わりました。

渋沢氏は祝辞で「いま市邨校長の式辞中に、商業教育のみは天下りでなくて陽炎のように下から発達したものである、天から降った雨でなく地から生じた霧の如きものであると言われたが、これは事実であります」と述べました。この言葉からは、自分たち民間人有志や矢野先生が商法講習所を支えたからこそ今日の商業教育があるのだ、という誇りが伝わってきます。

さいわい渋沢氏は、市邨先生を矢野先生の後継者と認めてくれたようです。渋沢氏はのちにエッセイで、式典のさいに名古屋商業学校を視察した感想を述べました。氏はそこで、市邨先生の教育を「矢野氏の如き周到なる注意に加えて、更に一歩文明的に進められたもの」であると高く評価し、「此の師にして此の弟子あり」と絶賛しています。

第1回全国商業学校校長会(明治23年)
前列右から三番目が矢野先生、後列一番右が市邨先生

渋沢栄一氏(市邨学園所蔵写真)

参考文献
一橋大学学園史刊行委員会編 『一橋大学百二十年史 captain of industry を超えて』 一橋大学 1995
渋沢青淵記念財団竜門社編 『渋沢栄一伝記資料』 26巻 渋沢栄一伝記資料刊行会 1959
渋沢青淵記念財団竜門社編 『渋沢栄一伝記資料』 44巻 渋沢栄一伝記資料刊行会 1962
鹿島茂 『渋沢栄一 2 論語編』 文藝春秋 2011
百年史編集委員会編 『CA百年(百周年記念)』 CA商友会 1984
山崎増二・杉浦太三郎・伊藤惣次郎編 『市邨先生語集』 市立名古屋商業学校・名古屋女子商業学校 1926
天野郁夫 『大学の誕生』上 中央公論新社 2009

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