私学、陽炎の教育とは④
(月刊なごやか NO.415(令和3年9月)掲載)
( 転載にあたり、掲載内容を2つに分け、掲載時の内容・趣旨に基づき修正、順番を入れ替えております。)

市邨先生は明治四〇年に、日本に女子商業教育を根付かせるため、名古屋女子商業学校(現・名古屋経済大学市邨高等学校)を設立します。そこにいたる道のりは、けして平坦ではありませんでした。

先人たちの苦労の甲斐あって商業教育はしだいに普及し、大正時代にはかなりの活況を呈しました。渋沢氏は大正七年に、いまは亡き矢野先生が今日の状況を知ったら「感情の強い人でありますからたんに感嘆していられぬ、まことに涙をもって喜ぶに相違ない」と述べています。また商業教育にあれほどの情熱を注いだ矢野先生にその成果を見せられないことが悲しくて、自分は人知れず涙をこぼすほどだとも語りました。

前人未踏の道を歩んだ師にくらべれば、第二世代の市邨先生は恵まれていたといえるでしょう。商業教育の需要が日増しに高まるなか、市邨先生はいくつもの学校で校長を務め、それらを人気校へと育て上げました。その功績ゆえに、全国商業学校長協会(現・全国商業高等学校長協会)会長などの要職を任されてもいます。

とはいえ市邨先生は、矢野先生らが先鞭をつけた仕事を継承しただけではありません。自ら未開拓の領域に足を踏みいれてもいます。その領域とは、女子のための商業教育でした。

市邨先生は広島県尾道市出身で、明治十五年、十四歳のときに上京し、商法講習所に入学しました。当時の広島県令(現在の知事)は県下に商業学校を設立したいと考え、優秀な学生をその教員候補として講習所に留学させていたのです。市邨先生は同校で矢野先生に感化され、商業教育にいっそう意欲を燃やすようになりました。

ところが明治二〇年、十九歳の市邨先生が学業を修めて帰郷すると、商業学校の設立は財政難のため中止となっていました。先生はしかたなく小学校の教員に就職しましたが、商業教育への未練は断ち切れません。そこで独自に夜間講習会を開き、簿記・経済・英語を教えはじめました。これが好評だったため、先生は私立尾道商法講習所(現・広島県立尾道商業高等学校)を設立します。

尾道講習所は日本初の、男女共学の商業学校でもありました。市邨先生は当時から女子にも商業教育が必要と考えていたのです。じっさいに四名の女子生徒が入学し、その成績も優秀だったので、先生は持論の正しさを確信しました。

ただし残念ながら、この試みはきわめて短命に終わりました。明治二一年に広島県は、市邨先生を校長としたまま、尾道商法講習所を公立学校とする決定を下します。これ自体は喜ばしい話でしたが、かわりに女子部は廃止を余儀なくされてしまいました。先生の発想は時代を先取りしすぎていたのでしょう。

市邨先生はその後の約二十年間、男子の商業教育に専念しました。尾道で数年間校長を務めたのち、明治二六年には市立名古屋商業学校へ赴任、四年後にはその校長に昇任します。市邨校長のもとで名古屋商業学校の名声は高まり、三つの博覧会で日本の商業学校を代表して出品者を務めるまでになりました。生徒数も、明治二七年以降の十年間で四倍に増えています。

当時の市邨先生は自宅を寮にして、生徒たちを住まわせていました。現在も本学園には、先生が寮生たちと撮影した集合写真がたくさん残されています。驚かされるのは、少なからぬ寮生が寝そべったり大物ぶって腕組みをしたり、おどけたポーズで写っていることです。先生が彼らと親密な関係を築いていたからこそでしょう。

やがて明治三〇年代の半ばごろから、国内でも女子商業教育実現の気運が高まりはじめました。明治三五年には、初期の尾道講習所をのぞけば日本初の、男女共学の商業学校、岡山市立商業学校(現・岡山県立岡山南高等学校)が誕生します。つづいて明治三六年、嘉悦孝先生が日本初の女子商業学校、私立女子商業学校(現・かえつ有明中・高等学校、嘉悦大学)を設立しました。

明治四〇年、市邨先生はこの流れを後押しすべく、私費を投じて名古屋女子商業学校(現・名古屋経済大学市邨高等学校)を設立し、長年の夢をかなえます。同校は日本初の、商業学校規定にもとづく正規の女子商業学校でした。

当時の市邨先生は、相当な激務を抱えていたはずです。公立の男子校で校長を務めつつ、新たに私立の女子校を設立したのですから。それだけでも大変なのに、明治四五年からは後者の校長にも就任し、一人で公立と私立、二校の校長を兼務しています。

大正七年に、市邨先生は名古屋商業学校の校長を引退し、ようやく女子教育に専念できるようになりました。大正一二年には入学志望者の増大に対応するため、名古屋第二女子商業学校(現・名古屋経済大学高蔵高等学校)を新設しています。市邨先生はその後、亡くなるまで両女子校の校長を務めました。そして昭和十五年のある朝、出校の準備中に脳溢血で倒れて病床に伏し、翌昭和十六年帰らぬ人となったのです。

市邨先生自身が語ったところによると、矢野先生はあるとき、市邨先生に「君と僕とは明治の馬鹿気質なり」と語ったことがあるそうです。打算抜きで商業教育に尽くす市邨先生の姿を、自分を見ているように感じてエールを送ったのでしょう。市邨先生はこれに「先生の大愚にあやかりたいと思います」と答えました。二人はそのまま、顔を見合わせて大笑いしたということです。

尾道商業学校沿革概略

市邨先生と市邨塾生(明治39年)

参考文献
百年史編集委員会編 『CA百年(百周年記念)』 CA商友会 1984
山崎増二・杉浦太三郎・伊藤惣次郎編 『市邨先生語集』 市立名古屋商業学校・名古屋女子商業学校・名古屋第二女子商業学校 1926
三好信浩 『日本商業教育発達史の研究』 風間書房 2012
三好信浩 『日本女子産業教育史の研究』 風間書房 2012
市邨学園百年史編纂委員会 『市邨学園百年史』 市邨学園 2007
渋沢青淵記念財団竜門社編 『渋沢栄一伝記資料』第44巻 渋沢栄一伝記資料刊行会 1962

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