私学、陽炎の教育とは②
(月刊なごやか NO.417(令和3年11月)掲載)
( 転載にあたり掲載時の内容・趣旨に基づき修正、順番を入れ替えております。)

いまでは誰でも、商業の隆盛が社会に繁栄をもたらすと知っています。しかし江戸時代には、商人は金の亡者として軽蔑されがちでした。幕末・明治の先人たちがこの偏見を打破したおかげで、現在の日本があるのです。

市邨先生は、大政奉還の年である慶応三年に生まれ、文明開化とともに成長しました。文豪の夏目漱石氏は同い年に当たります。

若き日の市邨先生は、自分も日本の発展に貢献したいと思い、商業教育の道を選びました。市邨先生の残した言葉から推察するに、先生は商業が、たんに物質的繁栄をもたらすだけでなく、人々の結びつきを強めてもくれると考えていたようです。おそらく先生の考えは、おおまかに言えば次のようなものだったのでしょう。

人はいつの世も集団生活を営み、協力しあって生きてきました。ただし太古の人々は小さな群れで暮らし、おもに親戚や近隣の人々のみと交流していたようです。文明が進むにつれ、人はより広範な相手と手を結び、大きな力を発揮できるようになりました。

とくに商業が発達した社会では、人が協力しあえる相手の範囲は爆発的に拡大しました。商人は品物を流通・配分して、見ず知らずの他人どうしを結びつけてくれます。おかげで遠隔地の生産者と消費者もスムーズに取引できるし、多くの生産者が役割分担して、複雑な機械を作ることもたやすくなるのです。

市邨先生はこうした考えを、幕末の動乱を経験した先人たちから学んだようです。江戸時代には武士が日本を支配していましたから、商人は金の亡者として見下されがちでした。西洋文明との接触が、日本人の商業観を大きく変えたのです。

もっとも西洋文明と遭遇した日本人が最初に目を奪われたのは、商業よりも軍艦や大砲でした。たとえば佐賀藩は、ペリー来航の約十年前から自力で大砲を作る計画に着手しています。アヘン戦争で西洋の強大な軍事力を知り、次の標的は日本かもしれないと恐れたからです。薩摩藩や水戸藩もこれに続きました。

しかし大砲作りは予想以上に難航しました。原料の鉄を溶かすため、専用の炉を作るだけでも一苦労だったのです。薩摩藩が最初に作った炉は自重で傾いて使用不能となり、水戸藩の炉は台風で煙突が崩壊しました。佐賀藩はいち早く炉を完成させたものの、いざ稼働してみると鉄がうまく溶けず、最初の大砲を鋳造するまでに五か月もかかっています。おまけにこの大砲も、試射すると砲身が破裂しました。

大砲作りが厄介なのは、日本の伝統的な産業にくらべ、多岐にわたる専門知識を要求するからです。諸藩はこの難関を乗り越えようと、他の藩とも情報交換や人材交流を行いました。武士以外にも、鋳物師、鍛冶師、陶器師、水車師、大工、左官、石工など、多種多様な職人を動員しています。

やがてこの事業に携わった人々は、西洋にはとほうもなく巨大な分業体制があるらしいと気づきました。さもなくば蒸気機関のように無数の精巧な部品からなる機械は作れないでしょう。大砲作りでさえ、従来の日本ではありえない規模で、多彩な人材から技量や知識を借りる必要があるのですから。

どうすれば日本にもその体制を築けるのでしょうか。答えをもたらしたのは実際に西洋へ赴いた人々でした。ここでは福沢諭吉氏と渋沢栄一氏をとりあげましょう。

二人は西洋社会が日本より自由で、身分差別も少ないのに気づきました。福沢氏は欧米を広く見て回り、人々が自由に意見を言い、議論するさまに驚かされます。農民出身の渋沢氏は、フランスの軍人が民間人と対等につきあうのを見て感動しました。むやみに威張る日本の武士とは大ちがいです。

また西洋人は自由だからといって、身勝手にふるまってはいませんでした。他の人々と協力しあったほうが結局は得だからです。しかも西洋人の結ぶ協力関係は、しばしば当人たちだけでなく社会全体に利益をもたらしていました。

福沢氏は、西洋人が議論を好むのは口喧嘩がしたいからではなく、たがいに知恵を出しあって名案を生むためだと見抜きました。彼らは国や地方の議会、学会、会社の経営会議など、さまざまな場で活発に議論します。そのうえ新聞や書物を介して未知の人々とも広く意見を交わします。この習慣なくして西洋文明の進歩はなかったでしょう。

また西洋の商工業者は自由に活動できるので、利益を求めて連携した結果、おのずと大規模な分業が生じました。移住や職業選択さえ制限される日本では、そんな現象は起こりません。だから諸藩は、武士や職人に命令して大砲を作らせるしかなかったのです。

渋沢氏はさらに、株式会社や銀行などの制度が投資を促進することに注目しました。おかげで西洋人はお金が余れば商工業者などに投資して見返りを期待できますし、投資を受けた側も積極的に事業開拓や商品開発にとりくめます。この互恵関係が社会にさらなる富や新技術をもたらすのは言うまでもありません。

日本と西洋は、まるで北風と太陽でした。西洋には自由と、相互協力をうながす制度や文化があります。ゆえに人々はおのずと協力の輪を広げ、社会を繁栄させるのです。それにひきかえ日本では、幕府や藩が命令し庶民はいやいや従うだけ。このままでは両者の差は開くばかりです。

二人はその後、日本を西洋のように、自由な人々が協力して支える国とすることに生涯を捧げました。福沢氏が『学問のすすめ』を書いたのは、誰の言いなりにもならず、自分の考えで生きるために勉強しよう、と読者に呼びかけるためです。また渋沢氏は西洋経済の仕組みを日本に紹介し、多くの株式会社や銀行の設立にかかわりました。

市邨先生の商業教育も、先人たちのこうした理想に根ざしています。商人なくして相互協力の国はつくれません。すでに述べたように、品物が生産者から消費者へ届くのも、諸産業が連携して分業できるのも、商人の仲立ちのおかげです。

市邨先生は「商業は社会奉仕」だと語り、商業が世のために役立っていることを、当の商人たちにも自覚してもらおうとしました。商人が誇りを持って誠実に働けば、社会はより良いものとなるでしょう。また本人の商売も繁盛するので、いいことずくめです。ゆえに先生は「道徳経済畢竟一なり」と述べました。

名古屋女子商業学校校舎
(「明治四十五年 卒業生 記念写真帳」より)

『市邨先生語集』掲載「只一事を記す(於白耳義)」下書き原稿(大正9年)

参考文献
中岡哲郎 『日本近代技術の形成  〈伝統〉と〈近大〉のダイナミクス』 朝日新聞社 2006
シャレド・ダイアモンド 倉骨彰訳『昨日までの世界 上 文明の源流と人類の未来』 日本経済新聞出版 2013
鹿島茂 『渋沢栄一 1 算盤編』 文芸春秋 2011
北岡伸一 『独立自尊 福沢諭吉の挑戦』 講談社 2002
福沢諭吉 斎藤孝訳 『現代語訳 文明論之概略』 筑摩書房 2013
福沢諭吉 斎藤孝訳 『現代語訳 学問のすすめ』 筑摩書房 2009
山崎増二・杉浦太三郎・伊藤惣次郎編 『市邨先生語集』 市立名古屋商業学校・名古屋女子商業学校 1926

Copyright (c) 学校法人市邨学園. All Rights Reserved.