創立者 市邨 芳樹
本学園の創立者市邨芳樹は、江戸から明治へと時代が変わる激動の時代に、現在の広島県尾道市に生まれました。幼少の頃より学業にいそしみ、15歳の時広島県からの官費留学生として東京商法講習所(現在の一橋大学)に入学しました。市邨は当時の校長矢野二郎の薫陶のもとに自らもその生涯を商業教育に捧げる決心をし、優秀な成績で学校を卒業します。明治20年には故郷広島に戻りわずか20歳にして尾道商法講習所(現在の県立尾道商業高等学校)を設立、その所長兼教諭としてその後50年にも及ぶ商業教育の実践をスタートさせました。
注目すべきは、市邨が尾道商法講習所を設立したとき、4人の女子生徒を受け入れたことです。同校は日本初の男女共学の商業学校でもあったのです。女子生徒たちは成績優秀で、市邨は自分の方針が正しいと確信しました。
しかし、この試みは極めて短命に終わります。設立の翌年、尾道商法講習所は県の公立学校に認められました。それ自体は喜ばしい話でしたが、代わりに女子部は廃止を余儀なくされたのです。
恩師 矢野二郎
尾道商業学校長兼教諭 任命(明治21年)
明治26年、市邨は矢野二郎の依頼で名古屋商業学校(現在の市立名古屋商業高等学校)に赴任し、4年後には校長となりました。市邨校長時代に同校は三つの博覧会(セントルイス万国博覧会、日英博覧会、パナマ太平洋万国博覧会)で、日本の商業学校を代表して出品者を務めるほどの発展を遂げます。
名古屋商業学校長兼教諭 任命(明治30年)
名古屋商業学校 教員集合写真
(左上に矢野二郎、右上に市邨芳樹)
やがて、市邨は再び女子商業教育の実現に挑むチャンスを手にしました。時代の空気が変わりはじめたのです。明治35年には、初期の尾道商法講習所を除けば日本初の、男女共学の商業学校、岡山市立商業学校(現在の岡山県立岡山南高等学校)が誕生しました。さらに翌年には、嘉悦孝が日本初の女子商業学校、私立女子商業学校(現在のかえつ有明中・高等学校、嘉悦大学)を設立します。
明治40年、市邨はこの流れを後押しすべく、私財を投じて、本学園の母体である名古屋女子商業学校(現在の名古屋経済大学市邨高等学校)を設立、長年の夢をかなえました。同校は、日本初の、商業学校規程にもとづく正規の女子商業学校となりました。
私立名古屋女子商業学校創立当時の教職員と生徒
「下堅杉町町仮校舎」(明治40年)
私立名古屋女子商業学校「西新町校舎」
その後、大正12年には教育の機会均等の精神を自ら実践するために、名古屋第二女子商業学校(現在の名古屋経済大学高蔵高等学校)を設立、両校は市邨の卓越した理念に基づく教育により発展を遂げていきました。
昭和16年1月1日、市邨は惜しまれつつもこの世を去りましたが、現在でもその業績は広く知られ、「女子商業教育の父」として称えられているのです。
私立名古屋女子商業学校(明治42年)
私立名古屋女子商業学校本科第2学年生(明治41年)
・第一回全国商業学校長会
・師弟教育の場として市邨塾を開設
・名古屋第二女子商業学校を開設、校長に就任
・商友会の発起により名古屋商業学校に寿像を建立
・逝去(享年74歳)
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