私学、陽炎の教育とは⑦
(月刊なごやか NO.423(令和4年5月)掲載)
( 転載にあたり掲載時の内容・趣旨に基づき修正、順番を入れ替えております。)

有名な五箇条の御誓文には、江戸から明治の変わり目に出されたとは思えないほど、民主的なメッセージがこめられています。まだ髷を結っていた時代の人々が、なぜ現在でも通用する考えを持つことができたのでしょうか。

明治四〇年の夏休みのことです。市邨先生は、名古屋商業学校の男子生徒たちから有志を募り、南知多の内海で水泳合宿を行いました。

合宿初日と二日目、市邨先生は朝早くに「サアサア、起きた起きた」と生徒たちを寝床から引っぱり出しました。彼らに「海岸における早朝の爽快」を味あわせたいと思ったからです。おそらく生徒たちは、はりきる市邨先生に連れられて、眠い目をこすりながら海岸へ向かったことでしょう。

ところが三日目の朝、異変が起きました。市邨先生がいつものように生徒たちを起こしに行くと、全員すでに目覚めていたのです。驚いて事情を訊いたところ、彼らは昨晩話しあいをして、「毎朝先生に起こされるのは面目ない。明日からは起こされぬうちに、自分から起きようではないか」と決めたということでした。

市邨先生は感激し、九月の始業式でこう語りました。

諸君は自ら団結して早起きしようと決めた。これはささいなようで大切なことだ。「自分のことはなるたけ自分で始末をつける」姿勢を「自治の精神」という。多少やせ我慢も入っておろうが、また眠いのをこらえる、いわゆる克己心など、幾多の美徳がその中に含まれている。

市邨先生はさらに、諸君の早起きは明治天皇が唱えた五箇条の御誓文にもかなうものだと語りました。御誓文が、日本の民主化を呼びかける内容なのはご存じでしょう。生徒たちは話しあいで早起きすると決めたとき、その第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」を、気づかぬうちに実践していたというわけです。

市邨先生は、各人のこうした心がけが日本の民主化を進める原動力になると考えていました。ふだんから物事を自分なりに考え、周囲の意見にも耳を傾ける人は、その経験を政治参加にも活かせるからです。

子どもたちの話しあいを民主主義に結びつけるのはおおげさだと感じる人もいるでしょう。しかし歴史学の世界でも、明治維新が実現したのは、江戸時代の人々がふだんから議論や意見交換を重んじていたからだ、と考える学者は少なくありません。日本は黒船来航からたった十五年で、公権力を批判すれば処刑も辞さない国から、「万機公論に決すべし」を指針とする国に変貌しました。いくら西洋をみならったにしても、何の下地もなくして民主主義の理念がこれほど急速に広がるとは考えにくいのです。

江戸時代人の意見交換としては文通なども重要ですが、今回は対面での読書会に焦点を当てましょう。当時の人々は、趣味や研究のためにしばしば私的な読書会を開いています。また藩校や私塾でも、学生たちがたがいに書物の解釈を論じあう、読書会型の授業がよく行われました。なかには比較的自由な発言が許される会や、参加者が身分や家柄の壁を越えて対等に議論する会もあったようです。

ゆえに日本では、西洋の民主主義が伝わる前から、それなりに多くの人が、曲がりなりにも自由な議論の魅力に触れていました。たとえば福沢諭吉氏は若いころ、適塾という私塾でオランダ語原書の読書会を経験しています。福沢氏がのちに西洋社会を見学したとき、民主主義の長所にすぐ気づいたのはそのせいかもしれません。

読書会に注目しつつ、日本が民主化へ向かう過程をたどってみましょう。最初のきっかけは、黒船来航の直後に、幕府の指導者阿部正弘が、なるべく多くの国民に力を借りて西洋に対抗しようと考えたことです。そこで阿部は、従来は国政から締め出してきた外様の有力大名なども含め、すべての大名に意見を訊き、協力を求めました。また朝廷とも連携を強め、有能な旗本は身分にかかわらず要職に抜擢しました(安政の改革)。

阿部の改革は民主的な面を持つものの、西洋思想の影響は受けていません。一説によれば、阿部はむしろ、読書会好きの元水戸藩主、徳川斉昭からの助言を参考にしています。斉昭は藩校で読書会をさせただけでなく、本人も親族や藩士と読書会をしていました。そして読書会で培った感性のおかげか、家臣の意見を積極的に聞き入れたり、家柄にこだわらぬ人事をしたり、当時にしては民主的な政治を行う面があったのです。

しかし阿部が急病で亡くなると、彼の築いた体制は崩壊しました。幕府の新たな指導者井伊直弼が、朝廷や藩の口出しに腹を立て、死者十数名に及ぶ大弾圧を行ったからです(安政の大獄)。つづいて井伊も、水戸藩士に報復されて死亡しました(桜田門外の変)。

日本は以降、テロの横行する不穏な状況に陥りました。多様な勢力が政治に参加した矢先に、仕切り役の幕府が信頼を失ったため、誰も国内をまとめられません。
このとき越前藩が、公家や大名など全国の有力者で会議を開いて政策を定めるという、議会政治に似た方針を提案しました。おそらくこの案には、同藩のブレーンを務めていた横井小楠の考えが反映されています。

元教師の横井は、「学政一致」という独特な政治思想を抱いていました。彼によれば、為政者は読書会をする学生のように、政策について周囲と話しあい、視野を広げるべきなのです。彼はその後、西洋人がすでに議論にもとづく政治をしていると知って感銘を受けました。とくにワシントンに共感し、自宅に肖像画を飾っています。

やがて一八六四年、朝廷は、越前藩の松平春嶽や薩摩藩の島津久光、斉昭の息子で将軍後見職の一橋慶喜など、数人の有力者に会議を開かせました(参与会議)。しかし横井の意図よりずっと小規模なこの会議ですら、内輪もめですぐ解散してしまいます。その後も同様な試みはありましたが、結局話しあいだけで国をまとめることはできませんでした。最終的に幕府と薩摩・長州が武力衝突し、明治新政府が誕生したのはご存じのとおりです。

もっとも横井の理想は潰えたわけではありません。御誓文の原案を作成した一人、由利公正は、じつは横井の弟子でもあります。明治の人々はこの御誓文を指針に日本の民主化を進め、ついには帝国議会の開設にいたりました。

歴史をふりかえると、水泳合宿での話しあいが御誓文の第一条に重なるのは偶然ではないとわかります。日本人はそもそも日常的な議論の経験を手がかりとして民主主義を理解したのですから。横井も当初はペリーの強引な態度に腹を立て、米国を敵視していました。読書会経験がなければ、考えを改めることはなかったかもしれません。

市邨先生は、人々の日々の営みが民主主義を育てる土壌になると語りました。それは現代でも変わりません。いくら新聞やテレビが民主主義の尊さを訴えても、相談や議論の習慣がない人は実感をもてないでしょう。私たちは他人と協力し、知恵を出しあうことで、社会の健全さを支えてもいるのです。

市邨先生と市邨塾塾生

市邨先生とご子息

参考文献
山崎増二・杉浦太三郎・伊藤惣次郎編 『市邨先生語集』 市立名古屋商業学校・名古屋女子商業学校・名古屋第二女子商業学校 1926
前田勉 『江戸の読書会 会読の思想史』 平凡社 2012
徳永洋 『横井小楠 維新の青写真を描いた男』 新潮社 2005
松浦玲 『横井小楠』 筑摩書房 2010

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