私学、陽炎の教育とは⑩
(月刊なごやか NO.429(令和4年11月)掲載)
( 転載にあたり掲載時の内容・趣旨に基づき修正、順番を入れ替えております。)

日本は今でこそ長寿国として知られていますが、そうなったのは、じつは戦後のことです。かつての日本では若くして体を壊す人も多かったため、市邨先生は教え子たちの健康にも気を配っていました。

明治四〇年のことです。市邨先生は、ある生徒にアメリカへの留学を勧めるべきか迷っていました。とても優秀な生徒なので、海外で語学力を鍛えれば、鬼に金棒のはずです。

しかし、ひとつ気がかりな点がありました。生徒の父親は七〇を超えていたうえ、近年大病を患ったばかりだったのです。下手をすれば、渡米が今生の別れになりかねません。先生は「どうも気の毒な感がして、大弱りに弱りました」と語っています。

市邨先生は悩んだすえ、やはり本人の将来を最優先すべきだと決意しました。そこで生徒の母親に「子供が渡米すれば、老人も『気の張り』というものができて、長寿を保たれるに相違ないと思うから」と説明し、留学を勧めたのです。おかげで生徒は、意気揚々と米国へ旅立ちました。

もちろん、先生にしてみれば責任重大です。その後も父子の運命を気にかけずにはいられません。

ところが、生徒の渡米から半年後に、市邨先生はその父親と面談し、たいへん驚きました。以前会ったときより、二〇歳は若返って見えたからです。父親本人がいうには、息子の帰国まで元気でいようと、酒も煙草もやめ、生活習慣を徹底改善した成果でした。あまりの変わりように、親戚や隣人も驚いているそうです。

市邨先生は、父親の子に対する愛情こそが奇跡をもたらしたのだと思い、胸をうたれました。いっぽう父親も、「これと申すもひとえに先生の御明察で、私は何ともうれしさに堪えられません」と感謝しました。

市邨先生はこの出来事と同じころ、世間には「此の人にして此の病あらんとは」「此の人にして今少し健康ならんには」と思わされることが多い、と嘆いています。明治の日本は、今のような長寿国ではありませんでした。当時の平均寿命は、なんと四〇代です。結核やコレラ、チフスなどの感染症で、年に十万人以上が亡くなることもしばしばでした。先生のまわりでも、まだまだこれからの人が体調を崩すことはめずらしくなかったのでしょう。

なかでも市邨先生が残念に思っていたのは、「健康を誇る青年の時期に、早く既に疾病の種を蒔く」人が絶えないことでした。誰しも元気なうちは、身体に配慮する気にはなかなかなれません。現代でも、若いころに不健康な生活習慣にはまり、のちに後悔する人は多いのです。

市邨先生は、生徒たちが良い生活習慣を身につけ、先の父親のごとく、元気でいられるよう願っていました。市邨先生のもと、名古屋商業学校で教師をしていた八木治信先生は、こう語っています。

市邨先生の方針では一部の限られたものだけが運動をやるのでは体育の意味がない、全部が運動せねばならぬというので、昼休みにはフットボールを十個以上も出して、校庭に居るどの生徒もポンポン蹴りまくったものだ。

スポーツが不得意な人でも、いざ運動をすると、身体を動かすこと自体は心地よく感じるものです。市邨先生は、生徒全員にその喜びを体験させて、運動好きに育てたかったのでしょう。

市邨先生の、健康についての考えは、ほぼそのまま現代でも通用します。たとえば近年の心理学研究によると、人間には、目先の安楽さに誘惑されると、将来の損失を軽視してしまう傾向があるそうです。多くの人が、ついつい過食や運動不足に陥ったり、禁煙に挫折したりするのはそのせいでしょう。頭では不健康だとわかっていても、本当に身体を壊すまでは実感できないのです。

市邨先生はまた、健康のためには「規律を重んじ、克己節制もって良習慣を養う」べきだと説きました。近年の研究でも、良い習慣を身につけるには、そのためのルールを具体的に定めることが有効と考えられています。

運動の場合を考えてみましょう。具体的なルールを決めず、今日は運動するか否かをそのつど判断する人は、そのたびに怠け心と戦わなくてはなりません。あらかじめ「火曜日と木曜日は夜七時から三十分間必ず運動をする」といったルールを決め、ひたすら守るほうが、怠け心は湧きにくいのです。しかもルールを守りつづけていれば、やがてはそれが当然の習慣になり、あまり苦心しなくても運動できるようになります。

もしもこの文章を目にして、自分も不健康な生活をしているのではと心に浮かんだ方がいたら、さきの父親ほどではなくても、できるところから良い習慣を身につけるべく努めてみてはいかがでしょうか。

名古屋第二女子商業学校卒業アルバム(昭和18年12月卒業)より
(二列目左から8人目が八木先生)

参考文献
百年誌編集委員会編 『CA百年(百周年記念)』 CA商友会 1984
山崎増二・杉浦太三郎・伊藤惣次郎編 『市邨先生語集』 市立名古屋商業学校・名古屋女子商業学校・名古屋第二女子商業学校 1926
厚生労働省ホームページ 「第19回生命表(完全生命表)」 (https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/19th/index.html)
小松裕 『全集 日本の歴史 第14巻 「いのち」と帝国日本』 小学館 2009年
ジョージ・エインズリー 山形浩生訳 『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』 NTT出版 2006年
ラッセル・A・ポルドラック 神谷之康監訳 児島修訳 『習慣と脳の科学 どうしても変えられないのはどうしてか』 みすず書房 2023年

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