私学、陽炎の教育とは⑥
(月刊なごやか NO.419(令和4年1月)掲載)
( 転載にあたり掲載時の内容・趣旨に基づき修正、順番を入れ替えております。)

市邨先生は、万人の協力が支える国を理想としました。すでにお話ししたように、先生が商業教育の道を選んだ一因はここにあります。また同じ理由から、先生は差別に反発したり、日本の民主化が進むことを願ったりもしました。

大正時代には中等学校の入試競争が過熱し、社会問題となりました。中等学校は、おおまかにいえば現在の中学校や中高一貫校にあたります。

ただし明治新政府は、義務教育は小学校までとしていました。中等学校にはごく一部の優等生だけが進学すればよい、と考えていたわけです。はじめはそれで問題なかったのですが、大正期に中等以上の教育を望む児童が増えると、限られた数の中等学校に志願者が殺到してしまいました。入試に落ち、小学校を出たばかりで浪人する児童もいたのです。

作家の井上靖氏は、ちょうどこのころに小学生時代を過ごしています。井上氏はのちに、当時の思い出にもとづいて、代表作の『しろばんば』を書きました。この小説で、主人公の少年は中等学校を受験することになり、教師から次のように発破をかけられます。

日曜以外は十二時に寝て、六時起床。その替り、日曜だけはたっぷり眠るんだ。そして眠っていない時間はいつも勉強だ。(中略)飯を食べる時も勉強、便所へ行っても勉強。風呂へ入っても勉強。――いいか、それができるか。

さて、市邨先生が校長を務めた各商業学校も中等学校で、現在の中学校に当たるコースと、中高一貫校に当たるコースの両方を備えていました。先生はできれば志願者をみな受け入れたいと思っていましたが、現実にはそうもいきません。ある演説では、その悩みをこう語っています。

私も長年教育に従事して苦しき経験を持っておりますが、年々選抜試験をやって、許可しない児童は一年遅れる。一年遅れると一年寿命を縮める。(中略)もしそこで赤い血が出るなら何人も見ておれないが、精神的に切る寿命ゆえ、苦しみつつ嘆息しつつその成り行きを眺めて、どうにかせねばならぬ、どうにかせねばならぬと年々その年を送ってしまう。

 市邨先生は不合格者の一部を寮に引き取り、予備校のように翌年の入試に向けて指導したりもしました。しかしこれでは根本的な解決にはなりません。寮で学んだ児童が合格しても、そのぶん他の志願者が不合格になるのですから。

結局、中等学校そのものを増やすしかないのです。市邨先生は、大正七年に男子校の校長を引退していくらか自由の効く身になると、この問題に取り組みました。大正十二年に自ら二つ目の女子校を設立したうえ、名古屋市にも公立学校を増やすよう働きかけたのです。

大正十三年に、市邨先生は名古屋市民に向けた演説で、学校不足の問題を電車にたとえました。名古屋市では混雑解消のために電車を増やしたばかりでしたから。以前は電車に乗りたくても、「五つ七つと待っておっても乗りきれない。このときには強い者勝ちで、我勝ちにと乗る人を押しのけ、飛び乗りをしたりする」ありさまでした。入試も同じで、児童は学校が足りないために押しのけ合い、負ければ翌年を待つしかありません。

電車でさえ一千万円で買った。電車は市民の便利のためのものである。(中略)学校は人間そのものを完成するところである。(中略)市民の便利をますます拡張する、それもよろしい。しかしそれがため、市民の後継者を立派にするのを忘れてはならぬ。

市邨先生の働きかけもあって、名古屋市は二つの学校を新設しました。これらの学校は、のちに桜台高校や旭丘高校のルーツの一つとなります。

市邨先生は、日本を誰もが社会参加できる国にしたいと望み、誰かが除け者にされることを悲しみました。ゆえになるべく多くの児童に中等教育への門戸を開こうとし、女子の商業教育を実践したり、中等学校の増設を訴えたりしたのです。

同じ気持ちから、市邨先生は女性参政権の実現を願っていました。学校増設を訴える演説でも「教育の機会均等は、普通選挙のそれとおなじ」だと述べています。

市邨先生は大正十一年にも、日本の議会制度を、女性も参政権を持てるよう改革すべきだと主張しています。当時の帝国議会は、皇族・華族からなる貴族院と、一定額以上納税した男性だけに参政権のある衆議院の、二つの院からなっていました。これでは貴族と富裕層しか議会に代表を送りこむことができません。

そこで市邨先生は、議会にもう一つ院をつけ加え、三番目の院では性別・収入を問わず、すべての成人に参政権を認めてはどうかと提案しました。そうすれば三つの院がそれぞれ貴族、富裕層、庶民を代表することになり、より民意を反映できるからです。

しかし市邨先生の存命中には、女性参政権は実現しませんでした。それどころか、昭和になると民主政そのものが衰退し、日本は戦争の時代に突入してしまいます。

戦後の日本では、女性参政権が認められ、誰もが義務教育として中学校に通えるようになりました。とはいえ先人たちの苦労は、私たちにとっても他人事ではありません。すでに民主化した国やその途上にある国でも、選挙や三権分立などが形ばかりになり、人々が獲得したはずの権利をふたたび奪われることはめずらしくないからです。ちょうど戦前の日本がそうだったように。

こうした事態を防ぐためにも、私たちは社会参加への意欲を保たなくてはなりません。市邨先生は学校増設の演説で、名古屋市民にこう訴えています。「誰かが学校を増やしてくれるであろう、というような依頼心から目覚めてください」、「われわれ市民の市であるから、市民が市を良くせねばならぬ」、「われわれ市民は、市会議員という代表者を持っている」のだから。

名古屋第二女子商業学校校舎

市邨先生語集(議院制度の改革)

参考文献
山崎増二・杉浦太三郎・伊藤惣次郎編 『市邨先生語集』 市立名古屋商業学校・名古屋女子商業学校・名古屋第二女子商業学校 1926
百年史編集委員会編 『CA百年(百周年記念)』 CA商友会 1984
市邨学園百年史編纂委員会 『市邨学園百年史』 市邨学園 2007
井上靖 『しろばんば』 新潮社 1965
スティーブン・レビツキー,ダニエル・ジブラット 『民主主義の死に方 二極化する政治が招く独裁への道』 新潮社 2018

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